会議中、隣の人が大きなあくびをした瞬間、なぜか自分まで口が開いてしまった。そんな経験は誰にでもあるはずです。テレビや動画で誰かがあくびをしている映像を見るだけでも、思わず誘われてしまうことがあります。
この「あくびがうつる」という現象は、世界中の研究者たちが長年にわたって調査を続けているテーマです。そして近年の研究では、この不思議な現象が人間の「共感能力」と深く関係している可能性が指摘されています。一方で、最新の研究では「共感だけでは説明できない」という新しい見方も出てきています。
この記事では、あくびがうつる仕組みを科学的な視点からできるだけわかりやすく解説し、さらにあくび以外にも共感能力が関わっている「伝染する現象」についても紹介していきます。専門的な内容も、なるべく平易な言葉で説明していますので、ぜひ最後まで読んでみてください。
あくびはどのくらいの人にうつるのか
まず前提として知っておきたいのは、あくびの伝染はすべての人に同じように起こるわけではないという点です。
アメリカの心理学者であるロバート・プロヴァイン氏は、あくびの研究における先駆者として知られています。プロヴァイン氏の研究チームが行った実験では、あくびをしている人の映像を見せた場合、実際にあくびをした人は参加者全体の半数程度にとどまり、残りの人はうつらなかったという結果が報告されています。つまり「あくびは誰にでも100%うつる」というわけではなく、うつりやすい人とうつりにくい人がいるということです。
さらに興味深いのは、あくびは映像や写真を見たときだけでなく、「あくび」という言葉を読んだり、あくびについて考えたりするだけでも誘発されることがあるという点です。これは単なる視覚的な模倣ではなく、もっと深いところにある脳の働きが関係していることを示しています。
なぜあくびはうつるのか。科学が示す3つの仮説
あくびの伝染がなぜ起こるのかについては、現在も研究が続けられている段階であり、一つの決定的な答えがあるわけではありません。ここでは、科学的に有力とされている主な仮説を順番に紹介します。
仮説1 ミラーニューロンと共感能力の関係
最も広く知られている説明が、脳内にある「ミラーニューロン」という神経細胞の働きに関するものです。
ミラーニューロンとは、自分が何かの動作をしたときだけでなく、他人が同じ動作をしているのを見ただけでも活性化する神経細胞のことです。もともとはサルの脳内で発見されたものですが、人間の脳にも同様の仕組みがあることがわかっています。
この仕組みは、他人の行動や表情を「まるで自分のことのように」脳内でシミュレーションする働きを持つと考えられており、他者の気持ちを理解する「共感」の土台になっているとされています。他人があくびをしている姿を見ると、脳の中で無意識のうちにその動作がなぞられ、結果として自分も同じ動作、つまりあくびをしてしまうという説明です。
この仮説を後押しする研究の一つに、アメリカの研究チームが発表した論文があります。この研究では、人が「共感的である」ことを測定する心理テストのスコアが高い人ほど、実際に他人のあくびを見たときに自分もあくびをする傾向が強いという結果が示されました。数ある表情の模倣行動の中でも、あくびの伝染だけが共感の度合いと明確に結びついていたという点が、この研究の大きな特徴です。
仮説2 共感というより「知覚の鋭さ」が関係している
一方で、あくびの伝染は共感そのものではなく、別の能力によって引き起こされているのではないかという見方も出てきています。
日本の東北大学の研究チームが発表した研究では、参加者に人があくびをしている写真や映像を見せ、視線の動きをアイトラッキング機器で記録するとともに、あくびをしていることをどれだけ正確に見分けられるかをテストしました。その結果、あくびを見分ける知覚の感度が高い人ほど、実際にあくびが伝染しやすいという関連が見つかりました。一方で、自閉傾向を測る指標との関連は薄く、共感能力そのものとの結びつきは想定されていたよりも弱いという結果になっています。
この研究が示しているのは、あくびの伝染には「他人の状態を感じ取る心の働き」だけでなく、そもそも「あくびをしているという視覚情報を正確にキャッチできるかどうか」という、より基礎的な知覚の能力も関わっているという可能性です。
仮説3 年齢や個人差、脳の疾患との関わり
あくびの伝染には、年齢や個人の性質による違いも見られます。
アメリカのデューク大学の研究チームが328人の健康な成人を対象に行った大規模な調査では、あくびの伝染は年齢とともに減少していく傾向があることが確認されました。また、この研究では共感力や疲労度、時間帯といった要素との関連は、これまで考えられていたよりもはるかに弱いという結果も報告されています。研究チームは、あくびの伝染をそのまま「共感力の指標」として扱うことには慎重であるべきだとコメントしています。
また、自閉スペクトラム症の子どもたちや、いわゆる「サイコパシー傾向」と呼ばれる人格特性が強い人を対象にした研究では、いずれのグループでもあくびの伝染が起こりにくいという傾向が繰り返し報告されています。自閉スペクトラム症では他者の視点を想像する「認知的な共感」の働きに特徴があるとされ、サイコパシー傾向では恐怖や悲しみといった感情そのものを感じにくい「感情的な共感」の働きに特徴があるとされています。異なるタイプの共感の難しさを抱える2つのグループの両方で、あくびの伝染が起こりにくいという事実は、あくびの伝染がやはり何らかの形で共感の働きと結びついていることを示唆する材料の一つになっています。
現時点での科学的な結論
このように紹介してきた研究の結果を見比べると、実は一貫していない部分も少なくありません。実際に、あくびの伝染と共感に関するこれまでの研究を体系的に見直した論文では、両者の関連を示す証拠は「一貫性がなく、まだ結論を出すには不十分である」とまとめられています。視線の向け方や、その場の社会的な緊張感といった、これまで見落とされがちだった別の要因が結果に影響している可能性も指摘されています。
つまり現時点で科学的に言えることは、「あくびの伝染には共感が関係している可能性は高いが、それだけで説明できるわけではなく、知覚の鋭さや年齢、性格といった複数の要因が絡み合った現象である」という、少し慎重な結論になります。あくびがうつりやすいからといって、それだけで「共感力が高い人だ」と決めつけることはできない、というのが最新の科学の立場だと言えるでしょう。
あくび以外にも共感能力が影響する「伝染する現象」
あくびと同じように、他人の状態を見聞きしただけで、自分の中にも似たような反応が起こる現象は、実は他にもいくつも存在します。ここでは代表的な3つを紹介します。
感情そのものが伝染する「感情伝染」
誰かの機嫌が良いとその場の空気が明るくなり、誰かが不安そうにしているとつられて自分も落ち着かなくなる、という経験はないでしょうか。これは心理学で「感情伝染」と呼ばれる現象です。
感情伝染もまた、ミラーニューロンの働きと関連していると考えられています。他人の表情や声のトーン、身振りを見聞きするだけで、脳の中で同じ感情に対応する部分が活性化し、まるで自分自身がその感情を抱いているかのような反応が起こるという仕組みです。
アメリカの研究チームが56歳から87歳までの高齢の夫婦321組を対象に行った調査では、パートナーの一方が良い機嫌のときに、もう一方のストレスホルモンであるコルチゾールの値が実際に下がるという結果が報告されています。感情の伝染は単なる「気分の話」ではなく、体の中のホルモンレベルにまで影響を及ぼす、実体のある生理現象だということがわかります。
見ているだけで痒くなる「痒みの伝染」
誰かが体をかいている様子を見ただけで、自分の体も痒くなってきた、という経験がある人は多いのではないでしょうか。これは「痒みの伝染」として知られる現象です。
アメリカの研究チームがこの現象を脳画像の技術を使って調べたところ、他人が体をかいている映像を見ただけで、実際に痒みを感じたときに働く脳の部位が活性化することがわかりました。ここで非常に興味深いのは、この研究では痒みの伝染しやすさと共感力そのものとの間には明確な関連が見られず、むしろ不安や緊張を感じやすい性格傾向、いわゆる神経症傾向との関連が強かったという結果です。
この結果は、あくびの伝染と同じように「他人の状態が伝染する現象」であっても、必ずしもすべてが共感能力によって説明できるわけではないということを示す、良い例になっています。
笑いやくすぐりの伝染
赤ちゃんが泣いているのを見て別の赤ちゃんが泣き出したり、誰かが大笑いしている姿を見てつられて笑ってしまったりするのも、よく似た仕組みによる現象です。
くすぐられて笑っている人を見ただけで、自分自身がくすぐられたときと同じように脳の感覚に関わる領域が反応するという研究結果もあります。表情や声、身体の動きといった他人の情報を、まるで自分のことのように脳内で再現してしまう仕組みが、笑いの伝染の背景にもあると考えられています。
まとめ あくびの伝染は「心の距離」を映す鏡かもしれない
あくびがうつる現象の背景には、ミラーニューロンによる共感の仕組みが関わっている可能性が高いと考えられていますが、それだけがすべてではなく、知覚の鋭さや年齢、性格といったさまざまな要因が複雑に絡み合っていることが、最新の研究から見えてきました。
同時に、感情伝染や痒みの伝染、笑いの伝染といった他の「伝染する現象」を見てみると、人間の脳は他人の状態を無意識のうちに自分の中に取り込んでしまう仕組みを、いくつも持っていることがわかります。その一部は共感力と強く結びついており、別の一部は共感とは違う要因によって動かされています。
友人や家族、同僚のあくびがうつったとき、それは単なる眠気の連鎖ではなく、もしかしたら自分の脳が相手の状態を無意識に感じ取ろうとしているサインなのかもしれません。次にあくびがうつったときは、少しだけそんな脳の働きに思いを巡らせてみるのも面白いかもしれません。
参考にした主な研究
- Robert Provine, contagious yawning に関する行動学的研究(アメリカ)
- Duke Center for Human Genome Variation, 328名を対象としたあくびの伝染に関する大規模調査(アメリカ)
- 東北大学, あくびの知覚感度と伝染に関する研究(日本)
- あくびの伝染と共感、向社会的行動の関連を調べた実験研究(アメリカ)
- あくびの伝染と共感の関連についての系統的レビュー論文(国際)
- 痒みの伝染に関する脳画像研究(アメリカ)
- 高齢夫婦を対象とした感情伝染とコルチゾールに関する調査研究(アメリカ・カナダ・ドイツ)


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