以前、「日本語はなぜ難しい?」外国人が苦戦する5つの理由を徹底解説!という記事を書きました。文字の種類、語順と主語の省略、察する文化、敬語、同音異義語という5つの壁について紹介したのですが、実はあの記事には触れていない「6つ目の壁」があります。

それが「方言」と「訛り」です。
標準語ならなんとなく聞き取れるのに、初めて聞く方言はまるで外国語のように聞こえる。そんな経験をしたことがある人は多いはずです。日本語を母国語とする私たちですら、方言の前では立ち尽くしてしまうことがあります。
- なぜ標準語はみんな分かるのに、方言は分からないのか
- そもそも、なぜ方言は生まれるのか
- 標準語ができたのに、なぜ方言に統一できなかったのか
- 英語にも方言や訛りはあるのか
- 日本の学校で習う英語は「標準語」なのか
今回はこうした素朴な疑問を、日本の方言研究だけでなく、海外の言語学の研究も交えながら、できるだけ易しい言葉で掘り下げてみます。
シヴィエさん方言ってさ、同じ日本語のはずなのに、なんで聞き取れないんだろう



標準語があるなら、方言なんて自然になくなりそうなものなのにね
そんな2人の疑問を出発点に、話を進めていきましょう。
1. そもそも「方言」と「訛り」は何が違うのか
方言と訛りは、日常会話ではほぼ同じ意味で使われがちですが、言語学的にはっきりとした違いがあります。
言語のバリエーション(社会言語学ではこれを「ヴァリエーション」と呼びます)は、語彙(単語)、文法(語順や助詞の使い方)、発音、そして単語の形の変化のしかたという、複数の層で起こりうるものです。方言というのは、このうちのいくつか、あるいはすべての層で標準語と異なっている状態を指します。
一方の訛りは、この中の「発音」だけが違う状態を指す、より狭い概念です。単語も文法もまったく標準語と同じなのに、イントネーションや母音・子音の響き方だけが違う場合、それは方言ではなく訛りと呼ぶのがふさわしいということになります。
イメージをつかむために、簡単な表にまとめてみます。
| 比較項目 | 訛り(アクセント) | 方言(ダイアレクト) |
|---|---|---|
| 違いが出る範囲 | 発音・イントネーションのみ | 発音に加えて語彙・文法も異なる |
| 具体例 | 標準語と同じ単語・文法だが、抑揚が独特 | 独自の単語や語尾、独自の文法規則を持つ |
| 代表例 | 東北の人が標準語を話すときの独特なイントネーション | 関西弁、津軽弁など、語彙・文法ごと異なる話し方 |
たとえば「そうだよね」を関西弁で言うと「せやな」になります。これは単語そのものが違うので方言です。一方、同じ「そうだよね」という言葉を使っていても、地域によって音の高低の付け方が変わる場合は、訛りという扱いになります。
実際には、方言の中に訛りが含まれている、という入れ子の関係になっていることがほとんどです。関西弁は語彙も文法も発音も標準語と違うので、方言でもあり、訛りの要素も持っている、ということになります。
2. なぜ標準語はみんな分かるのに、方言は分からないの?
ここが今回の記事の最初の核心です。
標準語がみんなに通じる理由は、実はとてもシンプルです。標準語は学校教育とテレビ・ラジオという2つの強力な装置によって、生まれてから毎日、繰り返し耳に入り、目に触れる言葉だからです。私たちは方言を話す家庭に生まれても、同時に標準語という「もうひとつの言葉」を、意識せずに習得しています。専門的には、この状態を「二方言併用(バイダイアレクタリズム)」と呼びます。
問題は、方言同士の場合、この共通の下地がないということです。
同じ日本語のはずなのに、津軽弁と鹿児島弁のように、地理的に大きく離れた方言同士が出会うと、ほとんど通じないというケースは珍しくありません。お互いが標準語という共通の橋を持っているからこそ意思疎通できるのであって、方言同士を直接ぶつけると、その橋がなくなってしまうわけです。
「方言」と「言語」の境界線は、実はあいまい
ここで、海外の言語学ではよく知られている、少し意地悪だけれど本質を突いた言い回しを紹介します。
イディッシュ語の研究者マックス・ワインライヒが1940年代、ある講演の後に聴講者から聞いたとされる言葉です。その人物はワインライヒに「方言と言語の違いは何か」と尋ね、彼が答えようとすると、こう言い放ったといいます。「言語とは、軍隊と海軍を持った方言のことだ」
つまり、ある話し方が「言語」と呼ばれるか「方言」と呼ばれるかは、純粋な言語学的な距離だけでなく、政治的・社会的な力関係によっても左右される、という指摘です。この言葉はワインライヒ自身の造語ではなく、講演を聞いていた誰かのアイデアを彼が広めたものだとされていますが、社会言語学の世界では今でも頻繁に引用される定番のフレーズになっています。
この視点で日本語の方言を見直すと、興味深い事実が見えてきます。
2009年、ユネスコは世界の消滅危機言語をまとめた地図を発表しました。このとき日本国内からは、北海道のアイヌ語、八丈島の八丈語、そして奄美・国頭・沖縄・宮古・八重山・与那国という琉球諸語の6つ、合わせて8つの言語が「消滅危機言語」としてリストアップされています。
ポイントは、これらが「方言」ではなく「言語」として扱われている点です。琉球諸語は、日本語とは同じ語族に属しながらも、日本語そのものとは異なる語派に分類される、独立した言語であるとする見方が、言語学の世界では有力になっています。実際には1879年の琉球併合(廃藩置県)をきっかけに、これらの言葉は長いあいだ「日本語の方言のひとつ」という位置づけに押し込められてきた歴史があります。
つまり、私たちが普段なんとなく「沖縄弁」「沖縄の方言」と呼んでいるものの一部は、言語学的に見れば、日本語とは別の独立した言語である可能性が高いということです。何を「方言」と呼び、何を「言語」と呼ぶかは、純粋な言語の違いの大きさだけでなく、その地域が政治的にどう扱われてきたかという歴史とも、切り離せない関係にあるわけです。
3. そもそも、方言はどうやって生まれるのか
方言が生まれる仕組み自体は、実はとてもシンプルです。
言葉は、放っておくと必ず変化します。発音は少しずつ揺れ、新しい言い回しが生まれ、古い言い回しは廃れていきます。この変化そのものは、日本語に限らずすべての言語に共通する、ごく自然な現象です。
問題は、この変化が「同じ方向」には進まないということです。ある程度の規模の話者集団を持つ言語であれば、地理的な障壁によって集団同士の接触が少なくなったり、社会的な階層によって集団が分かれたりすると、ほぼ必ず方言が生まれます。山や海によって行き来が難しい地域同士では、それぞれの土地で独自の言葉の変化が積み重なっていき、何世代もかけて、気づけばまったく違う話し方になっている、というわけです。
日本列島でこの仕組みを体感できるのが、新潟県糸魚川市から長野県、山梨県を経て静岡市へ抜ける「糸魚川-静岡構造線」です。この構造線は本州のほぼ中央を南北に走る大断層で、日本列島を地質学的に東北日本と西南日本に二分する境界線として知られています。
この地質学上の境界線は、方言研究者たちが指摘する日本語の東西方言の境界線とも、大まかに重なり合っています。険しい山脈が人の行き来を阻んできたことが、そのまま言葉の分かれ目にもなっているわけです。
ただし、方言の伝わり方は単純な「距離が近いほど似る」という法則だけでは説明できません。国立国語研究所で方言学・言語地理学を専門とする大西拓一郎教授の解説によれば、山梨県の一部の地域には、地理的にはむしろ関東に近いにもかかわらず、関西方言的な特徴が残っている場所があるといいます。これは、かつて内陸へ塩や物資を運んだ「塩の道」のような交易路を通じて、離れた土地の言葉が運ばれてきた結果だと考えられています。
つまり方言の分布は、山や川という「地形」だけでなく、人や物がどう行き来してきたかという「歴史」も反映した、いわば言葉の地層のようなものなのです。
4. 標準語はどうやって生まれたのか。明治から続く日本語統一の歴史
方言が自然発生的に生まれるものだとしたら、標準語は真逆の存在です。標準語は、誰かが意図的に「これを日本全国の規範にしよう」と決めて作られた、人工的な性格の強い言葉です。
「標準語」という言葉そのものが日本で初めて使われたのは、明治23年(1890年)、英語学者の岡倉由三郎によってだとされています。その後、文部省(現在の文部科学省)は明治37年から昭和24年にかけて、全国の小学校で使う「国定読本」という教科書を作りましたが、この教科書の言葉づかいは、東京の山の手地区に暮らす教養ある階層の話し言葉を基礎にしていました。
なぜ山の手言葉だったのでしょうか。江戸時代、山の手と呼ばれる高台には武家屋敷が並んでいましたが、明治維新後、その土地の多くは新政府の関係者や財閥、文化人といった新しい支配層の手に渡り、高級住宅地としての性格を強めていきました。つまり標準語のベースになったのは、当時の日本で最も政治的・文化的な発言力を持っていた人々の言葉だった、ということになります。ここにも、先ほどの「言語は軍隊と海軍を持った方言だ」という視点が、形を変えて当てはまります。
標準語を全国津々浦々まで届けた最大の立役者は、ラジオでした。日本では、東京・山の手の言葉づかいを基礎にした標準語が、放送というメディアを通じて全国に規範として広まっていきました。アナウンサーという職業は、単にニュースを読み上げるだけでなく、「正しい日本語」のお手本を全国の茶の間に届ける役割を担っていたわけです。
興味深いのは、戦後になって「標準語」という考え方そのものが見直されたことです。戦前は東京・山の手の話し言葉を基盤にした標準語を「全国民が使うべきもの」とする考え方が主流でしたが、戦後は現実に人々が使っている共通の言葉を「共通語」と呼び分けようという動きが起こりました。標準語が「こうあるべきだ」という理想形だとすれば、共通語は「実際にみんなが使っている」という現実の姿です。私たちが普段「標準語」と呼んでいるものの多くは、厳密に言えばこの「共通語」に近いものだと言えるかもしれません。
5. 標準語があるのに、なぜ方言は消えないのか
明治から100年以上かけて、学校教育とメディアという二重の仕組みで標準語が全国に広められてきました。それなのに、方言はいまだにしっかりと生き残っています。これはなぜなのでしょうか。
ここで役に立つのが、アメリカの社会言語学者ウィリアム・ラボフが1960年代に行った、有名な研究です。
ラボフが調査したのは、アメリカ東海岸の避暑地として知られるマーサズ・ヴィニヤード島でした。この島では、標準的なアメリカ英語の発音に比べて、一部の母音(oi、iceのaiなど)を口の中心寄りにこもらせるように発音する、独特のクセが観察されていました。
面白いのは、この発音のクセが強く出る人には、ある共通点があったということです。当時、島の漁業や農業は経済的に立ち行かなくなりつつあり、代わりに裕福な避暑客が大挙して島を訪れるようになっていました。とりわけ強くこの独特な発音を使っていたのは、若い漁師たちでした。彼らは豊かな観光客たちに対して複雑な思いを抱いており、島の伝統的な暮らしが失われていくことに抵抗していたのです。
つまり彼らは、標準的なアメリカ英語の発音を「知らなかった」わけではありません。むしろ、あえて島独自の発音を強めることで、「自分たちはよそ者の観光客とは違う、この島の人間だ」という所属意識を、無意識のうちに表現していたのです。
これと似た現象は、イギリスの社会言語学者ピーター・トラッドギルが、イングランドのノリッジという街で行った調査でも確認されています。トラッドギルは、標準的とされる発音に比べて評価の低いはずの非標準的な発音が、街の労働者階級の人々のあいだで使われ続けている理由を調べ、それが仲間内の結びつきやアイデンティティを保つためだと結論づけました。興味深いことに、この非標準的な話し方は男女ともに一定の「隠れた評価の高さ」を持っており、あからさまに口にはされないものの、好ましいものとして扱われていることがわかりました。
こうした「表向きの評価(オーバート・プレスティージ)」と「隠れた評価(カバート・プレスティージ)」という2種類の評価軸は、言語学ではよく知られた考え方です。標準語には、社会的に成功していそうに聞こえる、教養がありそうに聞こえるといった「表向きの評価」があります。その一方で、方言やなまりのある話し方には、身内っぽさ、親しみやすさ、その土地の人間であるという証しといった、「隠れた評価」が備わっているのです。
標準語が学校とメディアの力でどれだけ広まっても、方言が消えない理由はまさにここにあります。人間は言葉を、単なる情報伝達の道具としてだけでなく、「自分がどこの誰であるか」を示すためのラベルとしても使っているのです。関西弁を話す人が東京に長く住んでも関西弁を完全には手放さないのも、方言女子や方言男子がむしろ好意的に受け止められる風潮があるのも、この「隠れた評価」の力によるものだと考えると、腑に落ちるのではないでしょうか。



方言って、標準語に負けてなくならなかったんじゃなくて、みんなが無意識に選び続けてきたんだね



自分らしさを示すための道具でもあったってことか、面白いな
6. 英語にも方言や訛りはあるの?
ここまで日本語の話をしてきましたが、英語にも同じような構造があります。むしろ、英語の場合はその多様性が日本語以上に激しいとも言えます。
イギリス英語の「標準的な発音」とされているのが、RP(容認発音、Received Pronunciation)と呼ばれるものです。BBCのアナウンサーが話す発音として知られることから「BBC英語」と呼ばれることもあります。
RPの成り立ちは、日本の標準語とよく似ています。もともとRPは、15世紀初頭のイングランド東ミッドランズ地方(ノッティンガム周辺)の方言に由来すると言われていますが、その後、ロンドンの上流階級や有名な私立校(パブリックスクール)を通じて、社会的な威信を持つ発音として定着していきました。「国全体で1つの発音を」という発想自体は18世紀後半から生まれ始め、発音辞典が作られる中で少しずつRPという形に固まっていったとされています。
ここで多くの日本人が驚く事実があります。RPは「イギリス英語の標準的な発音」と紹介されることが多いのですが、実際にこの発音を母語として話しているイギリス人は、全体のわずか4%程度に過ぎないと言われています。つまりイギリスでは、「みんなが話している標準語」ではなく、「一部のエリート層が話す、社会的に威信の高い発音」がお手本として扱われているのです。これは、東京の山の手言葉をベースにした日本の標準語が、放送を通じて実際に多くの人の日常語になっていった経緯とは、かなり事情が異なります。
イギリス国内の地域差もすさまじく、労働者階級のロンドンっ子が話す「コックニー」ひとつを取っても、標準的なRPとはかなり違う響きになります。実際、ロンドン東部の労働者階級が話すコックニー訛りの人と、アメリカ南部の「サザン・ドロール」と呼ばれるゆったりした訛りの人が出会うと、お互いに歩み寄って発音を「中間的」にしない限り、スムーズに理解し合うのが難しいこともあると言われています。
アメリカ英語とイギリス標準英語(RP)そのものは、語彙や文法、綴り、発音にいくつかの違いはあるものの、基本的にはお互いに理解し合える関係にあります。むしろ厄介なのは、それぞれの国の内部にある、地域や階層による訛りの幅の広さのほうなのです。
7. 日本の学校で習う英語は「標準語」なの?
ここまでの話を踏まえると、次に気になるのが「では日本の学校で習う英語は、いったいどの英語なのか」という疑問です。
一般に、戦後の日本の学校英語は、イギリス英語よりもアメリカ英語を基準にしていると言われています。実際、日本の英語学習の主流はアメリカ英語であるという認識は、英語学習者のあいだでも広く共有されています。
ただし、この「戦前はイギリス英語、戦後はアメリカ英語」という単純な図式には、少し留保が必要です。実際に調べてみると、三省堂の検定教科書「New Crown」シリーズでは、2005年度の検定教科書に至るまで、イギリス英語のRP(容認発音)に特有の発音表記が使われ続けていたという事実があります。つまり戦後もしばらくのあいだ、教科書の世界にはイギリス英語の発音表記の名残りが残っていたということになります。
さらに大事なポイントがあります。仮に日本の学校英語がアメリカ英語をベースにしているとしても、そのアメリカ英語自体、アメリカ国内における唯一の「正しい英語」ではありません。学校で教えられる「一般的なアメリカ英語」とされる発音(ジェネラル・アメリカン)も、ニューヨーク訛りや南部訛りなど数ある地域変種の中から選ばれた、いわば「アメリカ版の山の手言葉」のようなものなのです。
この構造をより大きな視点で整理してくれるのが、インド出身の言語学者ブラジ・カチュルが提唱した「英語の3つの同心円」というモデルです。この考え方では、世界の英語話者を3つの円に分けて捉えます。イギリスやアメリカ、オーストラリアなど英語が母語として話されている国々を「内円(インナー・サークル)」、インドやナイジェリア、シンガポールなど、かつての植民地支配の歴史の中で英語が第二言語として社会に深く根づいた国々を「外円(アウター・サークル)」、そして日本や中国、ブラジルのように、英語を外国語として学んでいる国々を「拡大円(エクスパンディング・サークル)」と呼びます。興味深いのは、外円の国々は単にイギリスやアメリカの英語をそのまま真似ているわけではなく、それぞれの国で独自に定着した、いわば「その国の標準英語」を持っているという点です。
つまり、日本の学校英語は「世界でただひとつの正しい英語」を教えているわけではなく、内円(主にアメリカ)で使われている数ある英語の中から選ばれた、教育用の一種の「標準モデル」を教えているに過ぎません。これは、東京・山の手の言葉が「日本語の中で唯一正しい話し方」なのではなく、教育とメディアのために選ばれた「教育用の標準モデル」であるのと、驚くほどよく似た構造だと言えるでしょう。
8. 方言は「劣った言葉」じゃない。言語学が教えてくれること
ここまで見てきたように、標準語というのは、たまたま政治的・経済的な中心地の言葉が選ばれ、教育とメディアの力で全国に広められた、いわば「歴史の偶然」の産物です。だからといって、方言が標準語より劣った、崩れた言葉だということには、まったくなりません。
社会言語学の立場から見ると、非標準的とされる方言も、標準語と同じくらい言語として洗練された、体系立った規則を持つ存在であり、それを劣っていると判断することは、言語学的な根拠のない、社会的な偏見にすぎません。標準英語もまた、無数にある英語のバリエーションのうちのひとつに過ぎず、すべての方言は、それぞれの話者のニーズに完全に応えられるだけの、複雑で規則的なシステムを備えています。
これは英語や日本語に限った話ではありません。たとえばアメリカ英語における黒人英語(アフリカン・アメリカン・イングリッシュ)にも、標準英語とは異なる規則的な音のパターンが数多く存在しますが、それらは世界中のさまざまな方言に見られる差異と、本質的には同じ種類のものです。「正しい」「崩れている」という評価は、言葉そのものの性質から生まれるのではなく、その言葉を話す人々が社会の中でどんな立場に置かれてきたかという、歴史と権力の産物なのです。
方言や訛りに対して、ときに恥ずかしさやコンプレックスを感じてしまう人もいるかもしれません。ですが言語学の視点に立てば、方言は「標準語になり損ねた言葉」ではなく、それぞれの土地の歴史と、そこに生きてきた人々のアイデンティティが積み重なってできた、もうひとつの立派な言語システムなのです。
まとめ。方言は言語をややこしくする存在ではなく、豊かにする存在
最後に、今回の内容を振り返ってみましょう。
方言と訛りは、違いが及ぶ範囲によって区別される概念であり、方言は語彙・文法・発音のすべてに及ぶ違い、訛りは発音だけの違いを指します。方言が生まれる根本的な理由は、言葉が絶えず変化し続けるものであり、その変化の仕方が地理や歴史によって地域ごとにバラバラになっていくからでした。標準語が広く理解される理由は、学校教育と放送メディアという2つの装置が、国内のほぼ全員に同じ言葉を繰り返し届け続けてきたからです。そして標準語があるにもかかわらず方言が消えなかった理由は、人間が言葉を単なる伝達手段ではなく、自分の所属や生い立ちを示すアイデンティティの道具としても使っているからでした。
この構造は日本語だけの特殊な現象ではありません。英語の世界でも、RPという少数派のエリート発音が「標準」として祭り上げられる一方で、コックニーからサザン・ドロールまで、無数の方言や訛りが今も生き生きと存在しています。そして私たちが学校で習う英語もまた、世界中に存在する数ある英語のバリエーションの中から選ばれた、ひとつの教育用モデルに過ぎませんでした。
冒頭で紹介した「日本語はなぜ難しいのか」という問いに、方言というレイヤーを加えると、日本語はますます複雑な言語に見えてくるかもしれません。しかしそれは同時に、日本語がそれだけ長い歴史と豊かな地域文化を内包している証拠でもあります。方言は日本語をややこしくする厄介者ではなく、日本語という言語を何倍にも豊かにしてくれている、大切な存在なのです。



方言、これからは自信を持って使おうかな



その土地でしか生まれなかった言葉だと思うと、なんだか愛おしいね
参考文献・参照元
- Max Weinreich Witticism, Wikipedia「A language is a dialect with an army and navy」
- Language Log, “An army and navy”
- Oxford Academic, “Language or Dialect? The History of a Conceptual Pair”
- UNESCO, Atlas of the World’s Languages in Danger(2009年版)
- 比嘉光龍「日本には9つの言語が存在する 琉球諸語復興の第一歩は「方言」ではなく「言語」という認識から」複言語・多言語教育研究 4号(2016年)
- 琉球新報「危機言語としての琉球諸語」関連記事
- デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典「標準語」「アナウンサー」(小学館、kotobank)
- 日本大百科全書(ニッポニカ)「アナウンサー」項目
- 松崎徹「英語発音表記変遷史 ― 戦後検定教科書の発音表記の観点から ―」筑紫女学園大学紀要
- Wikipedia, “Received Pronunciation”
- Babbel Magazine, “Received Pronunciation”
- The Heritage Portal, 英米英語比較に関する記事
- William Labov, Martha’s Vineyard研究に関する各種解説資料
- Peter Trudgill, “Sex, covert prestige and linguistic change in the urban British English of Norwich”, Language in Society
- Braj Kachru, Three Circles of English(World Englishesモデル)に関する各種解説資料
- 産業技術総合研究所ほか、糸魚川-静岡構造線に関する地質学的資料
この記事は、言語学に関する公開情報や各種文献をもとに、できるだけわかりやすくまとめたものであり、内容の完全性や学術的な正確性を保証するものではありません。方言・言語・地域文化に関する専門的な判断が必要な場合は、言語学の専門家や各自治体、専門機関などにご確認ください。本記事の内容によって生じたいかなる損害についても、当サイトおよび筆者は責任を負いかねますので、あらかじめご了承ください。










