あの時桃が拾われなければよかったのに──
鬼は血に濡れた岩場で、腐臭を放つ自らの爪を見つめながらつぶやいた。
川面を流れてきた桃は、老夫婦の手に届くことなく、夜の渦に呑まれていった。
誰も桃太郎を知らない世界。誰も鬼ヶ島を恐れない世界。
だが、鬼たちは自由を得たのではなかった。
桃は「封印」だったのだ。
桃の中には、鬼を鎮めるための“魂の欠片”が眠っていた。
それを宿す子が生まれ、鬼を討つはずだった。
しかし桃は流され、割られず、腐り、川底で黒い胞子を放ち始めた。
胞子は川を汚し、魚を狂わせ、やがて人の心を喰い始めた。
村は異形の者で溢れ、鬼と人との境目は消えた。
仲間の鬼たちは、次々と形を失った。
皮膚は剥がれ、骨は腐り、臓腑は影と化した。
「封印される」ことが救いだったのだと、今さら気づいた。
──そして最後に残った鬼が、語り手である。
「桃よ…あの時、拾われていれば…」
鬼の声は濁り、腹から裂け目が広がる。
内側から何かが覗いている。
腐った桃の中で蠢いていた、あの“胞子”。
やがて鬼の口から声が漏れた。
それは鬼ではない、桃太郎でもない、もっと古い何かの声だった。
「ありがとう…拾わなかったから…今度は全部、喰える」
そして世界は、静かに腐り落ちた。
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