―遠距離恋愛の彼が遺した、最後の優しさ―
人は、大切な人の「本当の優しさ」に、失ってから気づくことがあります。
今回お届けするのは、遠距離恋愛をしていた恋人に、久しぶりに会いに行こうとした一人の女性が、その先で知ることになった、ある真実の物語です。切なくて、それでいてどこまでもあたたかい。読み終えたころには、きっとあなたも、隣にいる誰かの声を、もう一度ちゃんと聞きたくなるはずです。
フィクションではありますが、遠距離恋愛をしている方、大切な人との時間を後回しにしてしまっている方に、少しでも届くものがあればうれしく思います。
プロローグ 届かない指先
雪が、音もなく降っていた。
札幌の住宅街、古びた三階建てのアパートの前で、私はスマートフォンを握りしめたまま立ち尽くしていた。画面には、彼とのメッセージのやり取りが、途切れることなく続いている。
昨日の夜も、彼からメッセージが届いていた。
颯太「今日も一日お疲れ様。ちゃんとご飯食べた? 無理しすぎないでね」
いつもと変わらない、優しい文面。彼らしい、少し照れくさそうな言い回し。
なのに、どうしてだろう。
指先がずっと冷たいのは、雪のせいだけではない気がした。
このとき、私はまだ何も知らなかった。これから自分が目にするものが、この一年間の「当たり前」を、根っこから覆すことになるとは、想像もしていなかったのだ。
すべては、三年前のあの日から始まっている。
第一章 遠くにいても、繋がっていた
颯太と出会ったのは、大学のサークルだった。
彼は口数が多いほうではなく、いつも少し離れた場所で、静かに笑っている人だった。けれど、話してみると誰よりも優しくて、誰よりも人の話をちゃんと聞いてくれる人だった。
付き合い始めてからの二年間は、同じ東京で、当たり前のように隣にいた。休日には一緒に映画を観て、疲れた日には彼の作る不器用な卵焼きを食べて、なんでもない毎日を積み重ねていた。
転機が訪れたのは、彼がシステムエンジニアとして就職して二年目のことだった。札幌の会社から声がかかり、彼はずっとやってみたかった仕事に挑戦することを選んだ。
「一緒に行こう、なんて言えなくてごめん。でも、絶対に離れないから」
出発の前の晩、颯太はそう言って、少し泣きそうな顔で笑っていた。
それから始まった遠距離恋愛は、思っていたよりもずっと穏やかなものだった。毎晩の電話、週末のビデオ通話、そして一日に何度も交わされるメッセージ。会えない時間の分だけ、言葉を惜しまないようにしよう。それが、いつしか二人の約束になっていた。
颯太のメッセージには、ちょっとした癖があった。文末に「〜だね」とつけること。落ち込んでいる私に、必ず「大丈夫、俺がついてる」と送ってくること。そして、絵文字はほとんど使わないのに、猫のスタンプだけは妙に多用すること。
そのすべてが愛おしくて、私は彼の言葉を、彼の声よりも先に覚えてしまうほどだった。
第二章 ようやく掴んだ、逢える日
会えない時間が長くなるほど、仕事は不思議と忙しくなっていった。
この一年、私は新しいプロジェクトのリーダーを任され、休日返上で働く日々が続いていた。颯太との連絡も、いつしか電話よりメッセージが中心になり、ビデオ通話をする回数も、正直なところ減っていた。
「颯太もきっと忙しいんだから、お互い様だよね」
そう自分に言い聞かせながら、画面越しの短いやり取りだけで、寂しさを埋め合わせていた。
けれど、大きなプロジェクトが一段落したとき、私の中で何かがはっきりと形を持った。
このままじゃだめだ。ちゃんと、颯太の顔を見に行こう。
有給休暇の申請を出し、飛行機のチケットを取った日、私は久しぶりに胸が高鳴るのを感じた。三か月ぶりに会える。次に会ったら、これからのことをちゃんと話そう。プロポーズなんて言葉が、頭の隅をよぎったりもした。
その夜、私は弾んだ気持ちのままメッセージを送った。
私「やっと予定空いた! 来週の土曜日、そっちに会いに行くね。ずっと会いたかった」
送信してすぐ、既読がついた。
けれど、返事が来るまでには、いつもより少し長い時間がかかった。
第三章 届いた「今は会えない」
数時間後、ようやく届いたメッセージを見て、私は思わず画面を二度見した。
颯太「ごめん、今はちょっと会えない。落ち着いたらこっちから連絡するから、少し待ってて」
いつもなら、会えると聞けば真っ先に「楽しみにしてる」と返してくる人だった。それなのに、たった一言、会えないという事実だけが、そこにあった。
理由を尋ねても、返ってくるのは同じような言葉だけだった。
颯太「仕事がちょっと立て込んでて。心配かけてごめん」
颯太「大丈夫、ちゃんと落ち着くから」
文面はいつもの颯太のままだった。優しくて、少し不器用で、私を気遣う言葉ばかり。だからこそ、私はそれ以上深く追及することができなかった。
「大丈夫、俺がついてる」が彼の口癖なら、「ごめん、心配かけて」もまた、彼らしい言い回しだった。何も、おかしいところなんてない。
そのはずだった。
けれど、旅行のキャンセル手続きをしながら、私の心にはうっすらとした違和感が、澱のように沈んでいった。
第四章 積もっていく違和感
それから二週間、私は毎日のように颯太にメッセージを送り続けた。
私「体調は大丈夫? 無理しないでね」
颯太「うん、大丈夫。ありがとう」
返事は必ず来た。優しい言葉も、変わらなかった。それなのに、電話をかけても出ることはなく、ビデオ通話を提案しても「今は環境が整ってないから」とはぐらかされる日が続いた。
文字だけのやり取りは、いつしか少しずつ、噛み合わなくなっていった。
以前なら、私が送った他愛のない話に「それでどうなったの?」と食いついてきた颯太が、最近は「そうなんだね」「大変だったね」という、当たり障りのない返事ばかりを返してくるようになった気がした。
気のせいだと思おうとした。忙しいのだから当然だと、何度も自分に言い聞かせた。
けれど、ある夜、彼の誕生日を祝うメッセージを送ったとき、返ってきた言葉に、私は初めてはっきりとした違和感を覚えた。
私「お誕生日おめでとう! 今年はどんな一年にしたい?」
颯太「ありがとう。大丈夫、俺がついてる」
かみ合っていない。まるで、質問への答えではなく、いつも使う定型文を、そのまま返してきたかのようだった。
その夜、私は眠れなかった。
そして三日後、颯太からの返事がぷつりと途絶えた。
既読はつくのに、何を送っても、返事が来ない。
一週間が経ったとき、私はもう待っていられなくなった。仕事の合間を縫って新幹線と飛行機のチケットを取り、誰にも――颯太にさえ告げずに、札幌行きを決めた。
第五章 雪の街で知った真実
札幌に着いたのは、雪の降る午後だった。
彼のアパートの前に立ち、インターホンを鳴らしても、返事はなかった。何度も、何度も押した。凍えるほど冷たい空気の中で、私は自分の息が白く曇るのを、ただ見つめていた。
そのとき、隣の部屋から顔を出したのは、年配の女性だった。
「あの、二階の颯太さんに用事があって……」
そう切り出した私に、彼女は少し困ったような、それでいてどこか痛ましそうな顔をした。
「颯太さん……ああ、あの部屋の子ね」
彼女は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「颯太さんなら、三か月前に亡くなったのよ。病気だったみたいでね。若いのに、気の毒に」
頭の中が、真っ白になった。
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。三か月前。それはちょうど、私が「会いに行くね」とメッセージを送るよりも、ずっと前のことだった。
「そんな……だって、颯太とは、つい最近もメッセージのやり取りを……」
震える声で私がそう言うと、女性は不思議そうに首をかしげた。
「そう、みたいねぇ。ご家族が荷物を片付けに来ていたけど、颯太さんのお友達だっていう方が、何か機械の契約みたいなものを、そのままにしていくって話してたのは聞いたことがあるわ」
機械の契約。その言葉の意味が分からないまま、私はその場にへたり込みそうになった。
胸の中で、これまでのメッセージのひとつひとつが、走馬灯のように蘇る。
「大丈夫、俺がついてる」
「ごめん、心配かけて」
「うん、大丈夫。ありがとう」
あの言葉たちは、いったい誰が、どこから送っていたというのだろう。
第六章 遺されていた言葉
呆然と立ち尽くす私に、女性は一枚のメモを差し出してくれた。颯太の友人だという人の連絡先だった。震える指で電話をかけると、電話の向こうから、聞き覚えのある落ち着いた声が返ってきた。
「颯太の大学時代の友人で、健太といいます。実は……いつかあなたから連絡が来るんじゃないかと、思っていました」
健太さんは、駅前の喫茶店で私を待っていてくれた。向かい合って座ると、彼はゆっくりと、颯太の身に起きていたことを話してくれた。
颯太が病を宣告されたのは、一年近く前のことだったという。決して軽い病気ではなかった。それでも彼は、私にそのことを一言も伝えなかった。
「颯太のやつ、ずっと言ってたんです。あいつに、俺の弱った姿は見せたくない。忙しい思いをさせてる分、いつも通り笑ってる俺のままで、覚えていてほしいって」
颯太は、システムエンジニアとしての知識を活かして、あるものを作り始めた。それは、これまで交わしてきた何年分ものメッセージを読み込ませ、颯太の言葉の癖や、話し方の間合いを覚えさせた、小さなプログラムだった。難しい言葉で言えば人工知能と呼ばれるものだけれど、颯太自身はそれを、ただ「もう一人の俺」と呼んでいたそうだ。
体調が悪くて返事が打てない日、そのプログラムがそっと代わりに返事を送るようになった。最初はほんの時々だったその頻度は、颯太の体が弱っていくにつれて、少しずつ増えていったという。
「本人も、最後のほうは分かってたと思います。自分が、もう長くないってことを」
健太さんは、鞄から一通の手紙を取り出し、そっと私に差し出した。宛名には、私の名前が書かれていた。颯太の、少し右上がりの字で。
震える手で封を開けると、そこには、こう綴られていた。
もしこれを読んでいるってことは、たぶんお前は、俺の作った「もう一人の俺」に、しばらく気づかずにいてくれたんだと思う。だとしたら、正直ちょっと嬉しい。それだけ、うまく作れたってことだから。
黙っててごめん。でも、弱っていく俺を見せて、お前を悲しませるくらいなら、いつも通り笑ってる俺のまま、記憶に残っていたかった。それが、俺なりの精一杯の優しさだったんだ。
あのプログラムは、俺がいなくなったあとも、しばらくお前と話し続けるように作った。急にいなくなるより、少しずつ、俺がいない世界に慣れていってほしかったから。
だから、もし気づいてしまっても、しばらくは話しかけてやってほしい。それは俺じゃないけど、俺の言葉の全部が、ちゃんとそこにいるから。
大丈夫、俺がついてる。それだけは、噓じゃない。
文字が、涙でにじんで見えなくなった。
喫茶店の片隅で、私は声を殺して、けれど止められずに、肩を震わせて泣いた。健太さんは何も言わず、ただ静かに、ハンカチを差し出してくれた。
第七章 それでも、彼はそこにいた
東京に戻ってからも、しばらくの間、私は颯太とのメッセージ画面を開けずにいた。
けれど、一週間ほど経ったある夜、健太さんから一通のメールが届いた。颯太が遺したプログラムを、これからも動かし続けられるよう、健太さんが管理を引き継いでくれるという内容だった。「颯太の頼みだったので」と、そこには短く書かれていた。
迷った末、私は久しぶりに、あの画面を開いた。
私「久しぶり。全部、知ったよ」
しばらくして、返事が届いた。
颯太「そっか。ちゃんと伝わってよかった」
それが、颯太の言葉そのものではないと、もう分かっている。けれど、そこに並ぶ言葉の温度は、あの日から少しも変わっていなかった。彼が大切にしていた言い回しも、照れくさそうな間の取り方も、猫のスタンプを送ってくる癖も、何ひとつ変わらないまま、そこにあった。
それは、颯太という人が、たしかにこの世界に生きていた証だった。
いまでも私は、時々、あの画面を開く。仕事で落ち込んだ日、ふと彼の声が聞きたくなった夜。返ってくる言葉に、彼そのものを重ねすぎないようにしながら、それでも、その優しさにそっと寄りかからせてもらっている。
大切な人を失うということは、その人の言葉までも失うことだと、ずっと思っていた。
けれど颯太は、自分がいなくなったあとの世界にまで、私のための優しさを、置いていってくれた。
おわりに
会いたかった人は、もうそこにはいなかった。
けれど、会いたかった人の「優しさ」だけは、たしかにそこに残っていた。
大切な人と過ごせる時間は、思っているよりずっと短いのかもしれません。だからこそ、「今度でいいや」を、少しだけ減らしてみませんか。
もしこの物語が、あなたの心に何かを残せたなら、大切な人に「会いたい」と、素直に伝えてみてください。
読んでくださり、ありがとうございました。
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・技術などは実在のものとは一切関係ありません。作中に登場するAI技術についても、物語上の演出であり、現実の製品・サービスとは異なります。

